HERO

過日、日本球界のパイオニア野茂英雄が静かにグラブを置いた。
実業団時代の'88年のソウル五輪、後のヤクルト監督古田敦也(当時:トヨタ自動車)とバッテリーを組み銀メダルに貢献すると、翌'89年のドラフトで史上最多の8球団指名を受け、新日鉄堺から近鉄に入団した。独特のトルネード投法で初年度から4年連続パ・リーグ最多勝を果たす活躍を見せたものの、5年目は怪我により目だった成績を残せず、'95年に任意引退のままLA・ドジャースに入団。当時の年俸は約10万ドルだったとも言われている。
しかし"ドクターK"の真骨頂はそれからだった。メジャー1年目から13勝と球団新人記録の236奪三振(ナ・リーグ奪三振王)で新人王を獲得。シーズン中、4試合で50奪三振のおまけ付きで、同年、日本人初のMLBオールスターにも選出された。もちろん日米両リーグでの新人王獲得は野茂が史上初であるが、史上初はその後も続く。
'96年9月17日にはC・ロッキーズ戦で日本人初のノーヒットノーラン(Coorsフィールドでの達成者は現在野茂1人)、'97年4月にはメジャー通算500奪三振(メジャーリーグ最速)を達成。さらに'97年までの3シーズン連続で200奪三振の記録も樹立する。
'98年ア・リーグのNY・メッツに移ると、'99年9月には147試合目で通算1000奪三振(メジャー史上3番目、1位はR・クレメンスの143試合目、2位もD・グッデンの145試合目と非常に僅差)。'01年の4月4日のB・オリオールズ戦で2度目のノーヒットノーランを達成(両リーグでの達成者はメジャー史上4人目)。'03年、再びLA・ドジャースに復帰すると、'03年の4月にメジャー通算100勝を達成。'05年TB・デビルレイズで迎えた6月15日のMIL・ブリュワーズ戦での、日本の名球界入りの条件となる日米通算200勝(近鉄時代の5年間で78勝)が最後の記録となった。
翌年以降は残念ながら故障にも泣かされ、メジャーへの登板機会はなくなった。以来、往時のパフォーマンスを取り戻すことはなかったが、最後まで現役にこだわり続けた野茂。惜しむらくはチャンピオンリングと、メジャーでの通算記録、投球回数1972.0回と奪三振数1915は、2000到達まであと少しだったこと。
後に、伊良部、佐々木、イチロー、石井、松井(秀)、大塚、斎藤、岡島、松坂、そして福留など錚々たる顔ぶれが大々的に海へ渡ったが、朴訥な人柄で記録を誇ることもなく、いつも淡々と話していた彼。引退式のセレモニーもない寂しい幕引きだったが、野茂の功績はあまりにも偉大である。間違いなく野球界のHERO(英雄)と呼ぶに相応しいだろう。
8月8日の北京五輪開幕まで1ヶ月を切った。オリンピックでの野球の金メダルは1984年のロサンゼルス五輪にまで遡らなければならない。野茂でもなしえなかった24年ぶりの金メダルへ向け、星野ジャパンの奮起に期待したい。

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